キガリ虐殺記念センターへ!!ルワンダの悲劇に胸が締め付けられる
センター行きのミニバス
どうも旦那です。
ルワンダの首都キガリにあるキガリ虐殺記念センターに向かいます。
ニャブゴゴバスターミナルからの距離は約4km。
歩けない距離ではありませんでしたが、ローカルバスを使ってみました。
キガリには2種類の路線バスがあり、一つは専用のカードが必要なバス。もう一つは車内で料金が回収されるミニバス。
今回は、カードを持っていなかったのでミニバスを使って移動しました。
<キガリ虐殺記念センターの地図>
ニャブゴゴにはたくさんのバスがあり、どれに乗ったらいいか分からなかったのですが、朝食を食べた店の兄ちゃんが案内してくれました。
ルワンダ人はシャイですが親切で優しいので、誰かに「ジェノサイドメモリアル」と尋ねれば助けてくれると思います。
あっ、この国にもチップ目当ての押し付け親切の野郎がいるので、一般人にこっちから声を掛けましょうね^^;
さてセンターに向かう前に、20数年前にルワンダで起きた悲劇について。
1994年、わずか20数年前に約80万人が虐殺されました。
たった100日間で。
戦争??違います。殺したのは同じルワンダ国民です。
かつてルワンダを植民地化していた欧米国家が、国民を支配しやすいように民族を分断。
それがツチ族とフツ族。現在ではもともと同一民族であったと考えられる彼らを、肌や目の色、鼻の高さなどで分族したそうです。
そこから少しずつ階層が生まれ、欧米国家や支配層の思惑が交わり、ツチ族とフツ族は対立するようになっていきます。
幾度かの闘争を経た後、1994年4月フツ族であった当時のルワンダの大統領の乗った航空機が撃墜・暗殺されたことがきっかけに、国内は大混乱。
フツ族側の政府軍とツチ族側の武装勢力との内戦の陰で、政府軍とフツ族過激派の民兵組織によるツチ族およびフツ族穏健派の大虐殺が行われました。
詳しい歴史的背景や経緯はwikipediaに掲載されています。
キガリ虐殺記念センターに到着。
館内の入場は無料。お気持ちは寄付箱があるのでそちらに。
施設の外観の撮影はオッケーですが、内部展示の撮影は禁止、教育関係のための撮影は有料です。
まずは、簡単なビデオを見ます。
簡単なと言っても、内容は虐殺から逃れた方の当時の状況の証言。
家族・親族皆殺しにされて、一人生き残った方の話など、胸が締め付けられるような内容でした。
内部は非常に近代的な展示方法で、まるで博物館の様です。
しかし、その内容は生々しく、写真も映像も一切隠さず掲載されています。
虐殺の様子、虐殺された遺体…、すべてがわずか20数年前に起こったことだということが、カラー写真・映像であることから感じられるのです。
虐殺開始の直前まで、ツチ族もフツ族も同じ街・近所に住んでいたのです。
それが、ある日突然フツ族がツチ族を虐殺を開始。
ツチ族を殺そうとしない穏健なフツ族を、真っ先に裏切り者として虐殺する。
こうして、ルワンダ国内は地獄絵図の様相になりました。
民兵の武器は、切れ味の悪いナタや釘を打ち付けた棍棒など。
もちろん殺傷能力は低いですから、何度も何度も切りつけたり、殴打したり。
それはそれは悲惨なものだったそうです。
中には銃を持ったフツ族に大金を渡し、銃で殺してくれる様に懇願したツチ族もいたとか。
そして、女性たち。
多くの女性たちが強姦されたあとに殺害されました。
また、生き残った女性もHIVなどの病に今も苦しんでいたり、望まぬ妊娠をしたそうです。
さらに子供達。
展示室には、子供達の部屋という展示があります。
そこには、可愛らしい写真。好きな食べ物や将来の夢が書かれていました。
その下に書かれているのは、享年と殺された方法。。。
過激派フツ族は、子供達も関係なく虐殺しました。
幼い子供の中には、貯水槽に沈められたり、壁に何度も叩きつけられたりして殺された子達もいたそうです。
日本だと小学校に入るか入らないかの、まだ何も知らない子供達が、突然未来を奪われる。
一体、どのような精神状態に置かれたら、そのような鬼畜な振る舞いができるようになるのか。
調べてみると、どうやらラジオが大きな役割を果たしたそうです。
当時のルワンダ人の識字率は50%程度。
フツ族はツチ族よりも貧しかったそうですから、識字率はもっと低かったかも知れません。
本よりもラジオが人々の娯楽だったのでしょう。
そんな中で、連日流されたツチ族排除を促す一部のラジオ放送。
ツチ族の過激派は、その根底にある不満や過激思想に加えて、妄信的にラジオに洗脳された状態で、この様な残虐な行為を行なっていたかも知れません。
もしも、もっと人々に正しい教育が行き渡っていたら??教育の大切さも改めて感じました。
さて、最終的にこの大虐殺は、フツ族過激派とは別次元で政府軍と闘争していたツチ族派のルワンダ愛国戦線が政府軍を撃破することによって収束に向かいました。
その軍隊を率いていたのが、現ルワンダ大統領カガメ氏です。
その100日間、虐殺された多くの遺体が放置されていたそうです。
その話は次の日記に繋がります。
キガリ虐殺記念センターを後に。
まぁ、そう簡単に気分を入れ替えることもできませんが^^;
市場に寄ったり、ご飯を食べたりして宿に戻りました。
これは、ルワンダの辛味調味料アカバンガ。
食堂に置いてあるのですが、目薬の様な入れ物に入っているのが特徴。
唐辛子に、乳製品が発酵した様な独特の風味が付いていました。
アフリカ各地にある辛味調味料。
エチオピアはバレバレ、ケニアのピリピリ、そしてルワンダのアカバンガと何となく辛いものだろうなと分かる名前が付いているのがユニークですね。
ではでは。
ディスカッション
コメント一覧
こんにちは。
ホテルルワンダを見たことがあったので、こちらの記事を興味深く読ませてもらいました。
ここまで大きくなった原因には、国際社会が無関心だったということがあります。
「文明の衝突」でハンチントンが書いていますが、キリスト教でもイスラーム教でも白人でもない人たちには世界が注意を向けていなかったから、虐殺が野放しだったともいいます。
これと似た状況は、今ロヒンギャにおきています。
こうしたことがなくなればと思いますね。
ここんとうざいさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
調べてみると、当事者のフランスが失策した一方、頼りのアメリカも当時アフリカでの活動がうまく行っていなかったので後手に回った様ですね。
当然、動くべき国連もうまく立ち回れなかったようで…。
国際社会が無関心だったことは、当時高校生だった自分の事を思い返すと本当に痛感します。
ロヒンギャへの弾圧も、タンザニアのTVニュースを見る限り報道されている様には見えませんでした。
アフリカから見れば、東南アジアは遥か遠くの国の話なのでしょうね。。。
ルワンダのジェノサイドは概略は知りつつも掘り下げる勇気がなく目を閉じて耳を閉じていました。旧ドイツのナチによるジェノサイドを興味本位に掘り下げ恐怖した事がトラウマとなっています。今回、記事にwikiのリンクがあったので読みましたが背筋が凍る思いでした。私は国内にある戦争に関する資料館はできる限り訪れています。但し、二度は行かないと決めています。広島原爆祈念館を二十代前半で訪れた
後、暫くその衝撃から抜け出せなくなったことを思い出します。最近、国内では南京問題の書籍がアパホテルに置かれていたことが中国からの指摘をマスコミが報道しています。以前より少しましなのは偏った報道より現在の事象に基づいた話だけでそれ以上に発展していないことですが、大陸政府による政治の具に供するやり方には辟易しています。私は南京で30万人の虐殺の有無は否定論者なのですが、反面、1人殺めても30万人であっても戦時の罪はその国民に帰すると考えています。但し、過去の罪を無関係な世代が負うべきものでもないとも考えています。これらのおぞましい史実は忘れてはならず、出来ることなら二度起こしてはならぬ教訓だとは強く思っています。ルワンダの無垢な子供を殺めた記述は幼子を持つ親として震える程に居たたまれなくなります。人の残忍性は本当に救いがないと絶望感すら憶えました。今、ISは形は違えど同様の行為をしています。ミャンマ-北部でもリアルタイムで虐殺が行われています。余りに救いが無い世界に生きている現実を平和な日本にいる忘れがちです。寝惚けた感覚を捨て去らねばならぬと危機感を感じずにいられません。
toripapanさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
日本の戦争関連の祈念館では、鹿児島県知覧の少年特攻隊の祈念館を19歳で訪れたことがあります。
自分と同い年、もしくは若くして絶対に帰ってこれない出撃に出発する心境を思うと、胸が張り裂けんばかりの想いがこみ上げた事を思い出します。
世界を旅している時に、自然が豊かなところで「このあたりに危険な野生動物いる??」とよく聞くのですが、結構「いるよ。それは人間。ははは、冗談冗談。」なんて返事が返ってくるのですが、あながち冗談でもないなぁと。。。
ルワンダ人は、畑の形などを見るに仕事ぶりは真面目で、他人にはシャイ、日本人と似ている様な気もします。
だから、きっと日本人にも狂気の種は植わっているのだと思います。
その種を芽吹かせないための教育を、しっかりしていかなければと強く願っています。