キリング・フィールド(チュンエク大量虐殺センター)を訪れて
日本からのトイレの寄贈
どうも旦那です。
カンボジアのプノンペンに滞在中。
僕たちは先日「トゥール・スレン虐殺博物館」を訪れました。
今日は、もう一つの悲劇の舞台である「キリング・フィールド」と呼ばれる場所を訪問したいと思います。
ちなみにキリング・フィールドは、実際に虐殺が行われた場所の通称でカンボジアの各地にあり、僕たちが訪れたプノンペンのキリング・フィールドは「チュンエク大量虐殺センター」という名称があります。
キリング・フィールドへの行き方
キリング・フィールドは、プノンペンの郊外にあります。
プノンペンからの距離は約11km、徒歩は厳しい距離です。
しかし、キリング・フィールドへは目ぼしい公共交通機関はないため、ツアー・タクシー・トゥクトゥク・バイタク・レンタルバイクなどを利用することになります。
僕たちは、今回レンタルサイクルを借りてキリング・フィールドに向かいました。
レンタルサイクルは、泊まっている宿「capitol guest house」の向かいにあるお店で借りました。
一日2ドルで、パスポートを預ける必要があります。
プノンペンのダウンタウンを抜けるまでは、車やバイクの通行量が多く、運転には気を遣いました。
大きな幹線道路に出てからは、のんびりと運転できます。
入り口
チュンエク大量虐殺センターの入場料は、1人6ドル。
これには、日本語の音声ガイドも含まれています。
僕たちは、音声ガイド一つを二人でシェアしたいと受付で言って、二人で合計9ドルになりました。
このキリング・フィールドで行われていた悲劇
慰霊塔
ここキリング・フィールドで行われたことは、
処刑
です。
先日訪れたトゥール・スレン収容所はあくまで収容目的で、拷問等は行われましたが処刑はしてはいけない規則が有りました。
ポルポトの異常な猜疑心により始まった国民への虐殺行為の開始。
トゥール・スレンに収容された人々は、無理やり反政府分子であるとの発言をさせられた後、この場所に送られてきました。
新たな土地に向かい新生活を送ることになると言われて、多くの人々がトラックで運ばれてきたそうです。
与えられた食事には、ある種の農薬が混ぜられていました。
しかし、収容所で常時飢餓状態にあった人々の多くが、異変に気付いても食べたそうです。
さらに生き残った人々に待っているのは、処刑という実力行使。
しかし、物資に乏しいポルポト率いるクメール・ルージュ、銃弾に余裕がありません。
そこで使われたのが、農耕具などの一撃で殺めることができにくい道具。
中には、ノコギリ状になっている植物を使用したり、ただ樹に頭を叩きつけるといった処刑も行われていたそうです。
アフリカのルワンダで行われた虐殺方法に似ていますね。
その後、多くの人が当日の晩には処刑されました。
残った人々も、厳しい労働を強いられ、次々と亡くなっていったそうです。
ポルポトが政権をカンボジアを掌握していたのは、わずか数年でしたが、その間に100万に近くの人々が虐殺されたそうです。
その前後の内戦を含めると、カンボジア国内で200〜300万人の人々が亡くなっています。
これは、当時のカンボジアの人口のおよそ3分の1にもなります。
悲劇の舞台を目の当たりにして…
まずは、資料と映像のある建物へ。
1時間にに一回程度、当時の状況などの映像が上映されています。
英語でしたが、当時の状況を知る貴重な映像ですので時間が合えば見た方が良いですね。
施設内は、オーディオガイドのポイントの掲示と共に説明書きがありました(英語)。
すでに多くの建物が破壊されています。
こちらが処刑道具の代わりに使われたノコギリ状の葉を持つ植物。
ルワンダでも同じ様に使われました…。
実際に処刑された人々が埋められていた場所。
死体の臭いを隠すために、食事にも混入されていた農薬が大量に撒かれていたそうです。
当時は、腐敗した死体から出たガスで、土が盛り上がっていたのだとか…。
今でも、骨などが落ちている事があるのか、勝手に骨を拾わないでくださいとの注意書きがありました。
施設内には、大きな池があります。
音声ガイドが、少し疲れたでしょうから無理をせずに池でも見て休憩してくださいと気を遣ってくれていました。
確かにしんどい…、色々な意味で。
この樹は、たくさんの子供の頭を叩きつけて殺した樹。
慰霊のための腕輪がたくさん飾ってありました。
個人的には、この場所が一番辛かった。
慰霊塔の中には、犠牲となった人々の骨が大量に展示されています。
ルワンダでも言いましたが、僕はこの展示方法には違和感を覚えています。
僕なら土に還りたいと思いますので。
キリング・フィールドを訪れての感想
トゥール・スレンを訪れた時にも感じましたが、カンボジアでの虐殺は本当に理解に苦しみます。
アウシュビッツ、アルメニア、ルワンダと今まで様々な虐殺の現場や博物館を訪れました。
虐殺の裏にあった政治的な背景や民族間の対立などを理解すると、止められなかったことは悲劇ですが、それらの虐殺は起こるべくして起こったものであるとも感じることができたのです。
でも、ここカンボジアで起こった虐殺だけはどうにも理解できません。。。
ポルポトという頭のおかしいオッサンが、どうしてトップでいられたのか。
5年後10年後の国の姿を憂いて、なぜ誰も行動できなかったのか。
さらに不思議なのは、このポルポトというオッサンが1998年69歳まで生きていたということ。
死因は、諸説あるようですが公式には病死。
カンボジア人、人が良過ぎではないですか??
そりゃ、このオッサンに全ての憎しみを打ち込んで100万人の苦しみを味あわせて処刑させても、亡くなった人々は帰ってきません。
でも、そこから始まるものもあったのでは??
なんだかモヤモヤしたチュンエク大量虐殺センター訪問でした。
明日は、プノンペンの街ブラや美味しくて安いグルメなどのご紹介です。
ディスカッション
コメント一覧
ポル・ポトの成り立ちは非常に複雑で初期の思想は中国共産党と北朝鮮思想に影響されたと言われています。彼自身はフランスに留学をしていたインテリで後にインテリ層を虐殺した行為は確かに疑問にも思えますが似た行為は文革時の中国でも行われています。カンボジアは隣国のベトナム戦争もあってソ連、北ベトナム連合に対し、ポル・ポトは米国の支援を受けていた事もあり、国際情勢の複雑さもあって簡単には相関を語る事はできません。ポル・ポトが長命でいられたのは長らく内戦状態であった故でカンボジア人の温情があってのことではありません。カンボジアの虐殺はその手法と数でアジアでも類を見ない虐殺されていますが、それを上回る虐殺が文革時の中国でも行われていたされています。その数は4,000万人で被害者は1億人とも言われています。その実態が明らかになっているカンボジアと違い、中国は毛沢東時代を否定すると共産党が立ちゆかなくなる故に未だ真実は闇の中です。いずれにせよ、肯定できる行いではなく、理解すべき行為ではありません。
東から東南アジア史を研究するおじさん さん
はじめまして、コメントありがとうございます。
詳しい背景の説明、ありがとうございます。
やはり、この国の虐殺もバックに色々な国が控えていて、それぞれの思惑がうごめいていたのですね。。。
鯨類を食べる僕たちを野蛮だと罵る人々は、自身の国が行ってきたことを本当に理解しているんでしょうか??侵略や虐殺ではお腹は膨れません。
ポルポトが生き残れたのは、その後も続く内戦で手が出せなかったというのが実情なのですね。
家族や友人を奪われた人の気持ちを思うと、ただただ悲しいです。
1950年代後半1970年代後半の東南アジア情勢は今の様な経済発展が想像できぬ程、混乱していました。今、殆どの国が渡航可能ですが当時はベトナムは戦禍でカンボジアも内戦が勃発し、ミャンマ-やタイ奥地、ラオスは魔のトランアングル地帯と呼ばれる無法地帯で麻薬取引が為され、各国々共に治安が悪く、アウトロ-が跋扈していまた。虐殺に関して言えばインドネシアの1965年に起きた9.30事件でも50万人~300万人が虐殺されています。インドネシアは共産主義と宗教対立、カンボジア内戦は、王政対共産主義、ベトナムは共産主義対民主主義と対立構造の一軸が共産主義でした。ミャンマ-は軍政が中国共産党と結託して少数民族と内戦をし、マレ-シアやラオスも紛争が絶えず起きていました。1949年台湾でも蒋介石軍による白色テロで台湾人3人一人は親族に被害者いるといわれる程の虐殺が行われています。
アジア史を調べていると虐殺は避けて通れず特に近代史では虐殺なしでは語られません。ただ、中国史では権力闘争が大きくなればなるほど虐殺は残酷且つ被害者が増える傾向にあります。日本は古代王朝の成立と同時に儒教思想や仏教思想が周知され殺生そのものに対する破戒を戒める文化が根底に根ざしたおかげて虐殺行為があまりされませんでした。共産主義はユ-トピア思想で全てを均等にする社会を目指していますが、人の内に眠る生存本能は他の動物同様に相手と競争し、より優勢な遺伝子を残そうとする競争原理がプログラムされており、それを無視した共産主義とは相容れぬ故に破綻し、虐殺という破滅行為に繋がると私は考えています。
東から東南アジア史を研究するおじさん さん
コメントありがとうございます。
すごく詳しい説明いただいて、とても勉強になりました。
今の東南アジアを見ていると、つい数十年前に内戦がたくさん起きていた地域とは感じないですね。
これも仏教思想のおかげなのでしょうか。
同じ様に内戦が起きていた中米・南米の今の治安の悪さを知っているので余計にそう感じます。
中南米・アフリカなどの後発キリスト教圏の治安の悪さはひどいものですね。
逆に仏教圏・イスラム圏・ヒンドゥー圏、共産主義圏の治安は、そこまで悪くない印象です。
共産主義はなってしまえば悪くないと思うのですが、今の世の中では隣の芝は青く見えて、なかなか難しいのでしょうね。。。
しつこくなりそうなのでこのコメで最後にします。人に限らず生物の進化は常に競争と淘汰の中から生まれます。その摂理は時に非常で残酷なものです。人は何時しか野生の動物とは違う約束を相互の間で結ぶ智慧を持ち、互いの生命を侵さない事を決めます。それが哲学、道徳、宗教、法律と様々な地で芽吹き、様々な木となりました。文明は火から始まったと唯物的に語りますが私は道具が文明を産んだとは考えてはいません。文明は相互の生命の保全から始まったと考えています。ところが人は本能である生存と無意識下にある進化の狭間でその文明に振り回されることになっています。その「生命の相互保全」を更に進化させたマルクス等による共産主義の考えはユ-トピア思想であり、進化を極めた神の領域を具現化した行いだと考えています。なぜなら共産主義を成し得るためには、個の「欲」の全てを捨てなくては成立しないからです。共産主義の目的は究極の平等にあり、富を再分配し全てにおいて平等であることを求めているからです。それには進化を極めて全ての欲を捨てなくてはなりません。では、今現在、全ての人間が欲を捨て去る事が可能であるのか!?その答えは「否」となります。故に「欲」を所持した形で共産主義を実現すると権力闘争や粛正、虐殺が蔓延し、その中に赤い貴族と呼ばれる特権階級を生みます。共産主義はファシズムでドイツのナチズムの構造と何も変わりがありません。なので、共産圏である中国、ベトナム、ラオスやキュ-バ等を見ても羨ましいと思ったことは一度もありません。共産主義は毒林檎で絶対食べてはならない悪魔の果実だと思っています。
宗教の寛容性についてお話します。宗教の寛容性と東南アジアの上座(旧小乗)仏教(東南アジアの仏教)とは無縁なものです。世界の三大宗教に限らず原理主義の宗派は一神教であり非常に排他的で他宗教、宗派に対して攻撃的でその生命を奪うことに躊躇無く、その教え戒律で刃傷を戒めているのにも関わらず信奉する宗教・宗派が違えば人に非ずの考えがあります。これは台湾原住民(台湾では正しい呼称)の首刈り(草首)の対象は言葉の通じぬ相手は獲物との考えに相似します。非常に原始的で野蛮な行為ですがイスラム原理主義の為せる残虐性の根底はそこにあります。この原理主義思想はキリスト教や仏教にもあります。当然、その教えには寛容さは欠落しています。ミャンマ-のロヒンギャに対する虐殺等は正にこのロジックで動いた仏教徒の行いです。これと相対するのが日本の仏教で、その寛容性は神道における百万の神の多様性にあると言われています。これに近い宗教観を持つのが中国の仏教です。中国仏教は土着のアミニズムや神仙信仰、儒教を始めとした思想と結びつき、その裾野はとても広いものです。その中から道教が生まれたとする学者もいます。そんな中国も共産主義による唯物論により宗教の上に共産党があることになっています。
東南アジアにおけるおぞましい虐殺には聞くのも耐えれぬものがあり、何故に人の狂気はそこ向かい周囲が無力であったのかと悲しい自問自答を繰り返します。人は狂気の中では狂気の一部となり正常の思考はできません。そもそも、虐殺そのものが残虐であるとの定義は先に述べた「生命の相互保全」が機能している時だけであって、それが瓦解した環境では自らの生命を脅かす存在であれば排除する本能は容赦なく目覚め行為そのものの倫理感は霧散します。人間にはそんな環境を作っててはならず、作らない努力をしなくてはなりません。そのためにも目を背けず人の業と非情を見なければならぬと私は考えています。最後、その様な環境を作りやすいイデオロギ-が共産主義だと考えています。神の領域に触れ獣に成り下がるのが、この主義の特徴だ私は考えています。
東から東南アジア史を研究するおじさん さん
こんにちは。
宗教とか政治思想とか、本来人の世に良かれと思って生まれたものが逆にたくさんの人々を悲しませているのは皮肉なものですね…。人が生物の域を超えるのはまだまだ先。遠い未来に、現代の人々が思う神の力が人々にも備わるとは思いますが、その時に真の平和が訪れるのかさらなる悲劇が生まれるのか、それこそ神のみぞ知るですね^^;
今回、虐殺の幅広い背景を丁寧に説明して頂いて、ありがとございます。
正直に申しますと、恥ずかしながら勉強不足で今回頂いたコメント内容全てを理解できたわけではありませんでした。
これではあまりにもったいないので、広く浅くの世界旅行が終わったら、気になったテーマを自分の中で深く掘り下げていこうと思っています。
また、機会がありましたら、よろしくご指導下さい。
taxiさん
ご丁寧なお返事に恐縮しています。指導なんてとんでもありません。私は既に50歳も過ぎて老いの年齢で自分が見てきた世界がどんなものであったのかを総括するため、自分のために検証しているに過ぎません。誰かを論破しようとか議論をしようとか思わないのですが不徳の致すところで時折、余計な事を書いてしまいます。私は東南アジア史と東アジア史に興味があって、それに関する検証を兼ねて旅行をすることがある程度で、世界を回っているTAXIさんとは比べものになりません。それにまだお若いので感性も私より鋭いので色々と感ずることもおありかと思います。
すべての記事は読んではいないのですが時折、拝見させて頂いております。今は既にベトナムを過ぎているのかもしれませんが、道中の無事と新たなる発見の巡り合わせが多き事をお祈りしております。